「お話」とノンフィクションの本づくり

もう手を出さないだろう分野に、ノンフィクションの本づくりがある。

お話には「型」がある。
主役がいて、脇役がいる。
数々の敵や試練があり、葛藤を繰り返し、
艱難辛苦を乗り越えていつしか成長する主役…というのが
基本の「型」となる。


乗り越える相手が、不況や病気や災害や死…なら、書ける。
でも「人」の場合は、実在する〇〇さんを敵役に設定するわけだ。

実社会には「変な人」や「嫌な奴」はいても、
「悪人」や「ひどい奴」は、そうはいない。
どんな人でも悪い顔を持っているし、
誰にフォーカスするかで、悪役と主役は入れ替わる。

ただ、人は
自分で思っているほどはいい人ではない場合が多い。
その「いい人ではない」一面を悪役にあぶりだして書くのだ。
「名誉棄損」と憤られることもあるだろう。
人は、他人が思っている以上に
「自分はいい人」で「値打ちがある」と思っているから。

ドキュメンタリーやノンフィクションを手掛ける、
優秀なジャーナリストや作家さんには
「人生をかけて」書く覚悟、伝える覚悟というのがある(あってほしい!)。
生身の人を取材して、見て感じたことを構成し、
人に読まれる「本にする」という行為の怖さを実感し、
書くことが怖くなった。
発注者がある仕事の場合、ハンドリングもできない。

この文章は取って、こっちの表現にかえて、と、
朱を散々に入れられつつも、
取材しただけの普通の人を「敵」として世に出す勇気はなく、
毒を抜いてしまった。

でも、敵が登場しないお話は、成りたたない。
小学生が夏休みに書く、何もない日の日記ではあるまいし。

ノンフィクションを得意とする所は沢山ある。
別の分野を得意としよう。
あたたかいコンテンツを心を込めて手掛け、
世に送りだそう、と思い至った。

※(文/ 真柴 マキ)